カストロのキューバ

2007-12-15 00:07:23

1962年、キューバ危機。核戦争勃発の確率が最も高まったと言われるこの年、若き米国大統領JFケネディは45歳、ソ連書記長フルシチョフは68歳、そして革命成功から3年を経たキューバの最高指導者、フィデル・カストロ・ルスは若干36歳であった。

40余年を経て2003年。米国大統領ブッシュはケネディから数えて9代目、ソ連亡き後のロシア大統領プーチンは5代目、ちなみに小泉首相は当時から数えて19代目。そしてカストロは77歳、相変わらずキューバの最高指導者である。

私は数年前からキューバ行きを焦っていた。正確に言えば、「カストロのキューバ」行きを焦っていた。カストロは本当にノーベル平和賞候補に値する英雄なのか。90%の国民支持率というのは情報操作ではないのか。カストロが実権を握っている間にこの目で確かめたかった。
そして私は体感した。人々の笑顔が教えてくれた。カストロは英雄であった。彼が独裁者であることは否定できないだろう。しかし、独裁が必ずしも悪であるとは限らない可能性を、私は感じた。キューバの識字率、平均寿命はいずれも世界最高水準なのだ。

キューバの首都ハバナ。アラスカからマゼラン海峡までの南北アメリカで最も治安のよい大都市と評されるこの街は、マイアミからわずか 100km程の距離だ。しかし米国からの飛行機は一便も飛んで来ない。キューバ危機以来続く、米国の経済封鎖によるものだ。私もわざわざメキシコ経由でハバナに入った。

正真正銘の社会主義国への入国で私は少し緊張して身構えていた。多少の堅苦しさを覚悟していた。しかし、その懸念は空港からのタクシーの気のいい運ちゃんが晴らしてくれた。彼は最初の信号待ちでいきなり窓越しにミニスカートの女の子に声を掛けた。信号毎の交渉はいつも難航し、青信号でしぶしぶ発進する彼はその度に私に苦笑いを返すのだった。要するに挨拶なのだ、そして要するにこれがカストロのキューバなのだと、私はうれしくて楽しくてたまらなくなった。

ハバナ名物のひとつは年代物のクラシックカーである。もちろん現役で、タクシーにもこれが多い。しかし、ここにもキューバの歴史が隠されている。私には見分けがつかなかったが、1958年の革命以前の車はフォード等のアメリカ車であり、それ以降の車はソ連製なのだ。革命前のキューバは親米国だったのだ。私の泊まったホテルは45年前に建てられた、なんと旧ハバナヒルトンである。ちなみにキューバと言えばラムで、ラムと言えば「バガルディ」が有名だが、これはハバナに工場のあった米国資本で、革命時にプエルトリコに移り現在に至っている。旧バガルディの工場では「ハバナクラブ」と名を変えて生産が続けられている。工場見学もしたし、私はこれからはラムはハバナクラブと決めている。

ハバナではとにかく朝から飲んでいた。もちろんラムだ。街角にはいつもどこからか音楽が流れ、笑い声が漏れ、太陽が照りつけ、そして私はふらついていた。田舎の街では馬に乗り、出来たての手作り葉巻を吸わせてもらい、そしてやっぱりラムだった。

カストロは英雄ではあるが、彼もまた人間だ。彼が果てたとき、キューバは困難な時を迎えるだろう。あまりにも長く、あまりにも偉大なカリスマ指導者の独裁が続きすぎた。弟のラウル・カストロは革命以来の同志だが、兄の後には軽すぎるだろう。合議制への移行の道は平坦ではないはずだ。唯一、カストロの後を継げる可能性があったとしたら、それは、チェ・ゲバラであったろう。革命の英雄でありカストロの盟友であったゲバラは、今なおキューバで絶大な人気を誇る。ハバナの革命広場にある巨大な肖像は、カストロではなくゲバラのものだ。しかし彼は遠く1967年、志半ばにしてボリビア山中に没している。

カストロ後のキューバを、私はハバナクラブを飲みながら日本から見守ることになるだろう。何十年か後に、今と変わらぬ陽気で明るいキューバを再訪できることを願って止まない。